大きく広がるフレーバーの世界
原子核の構成要素である陽子と中性子を総称して核子といいます。
核子同士を結び付けている力を媒介する粒子として、湯川秀樹はパイ(π)中間子を理論的に予言して本邦初のノーベル物理学賞を受賞しました。
核子はアップ(u)とダウン(d)クォークが3つ組み合わさってできており、π中間子はクォーク(uまたはd)と反クォーク(uまたは d)対からできています。
クォーク・反クォーク・グルーオンから構成される複合粒子群を総称してハドロン(「1. クォーク3つ、あるいは、クォーク・反クォークだけじゃない ハドロンの多様な世界」参照
)といいます。核子やπ中間子はハドロンの仲間です。
クォークには、u、dのほかに、ストレンジ(s)、チャーム(c)、ボトム(b)、トップ(t)があり、それぞれ、ストレンジネス(S)、チャーム(C)、ボトム(B)、トップ(T)というフレーバー量子数が与えられています。生成後、直ちに弱崩壊してしまうtを除き、フレーバー量子数を持つクォークを構成要素に含むハドロンも多数存在が明らかになっています。核子の仲間で、ゼロでないS量子数を持つ粒子をハイペロン(図1)と呼びます。ハイペロンは核子とともに原子核を形成しうることが知られ、ハイペロンを含む原子核をハイパー核(「2. 新しいフレーバーを持つ原子核」参照)といいます。
陽子と中性子からなる“通常の”原子核は、これまでにおよそ3000種類の存在が確認されており、理論的には6000以上存在するといわれています。通常の原子核は陽子数と中性子数を縦軸横軸にとった核図表として分類されます。ハイパー核では、ストレンジ(s)クォークの数(ストレンジネス量子数)の軸を加えて3次元座標に拡張した“超(ハイパー)”原子核図(3次元核図表)を構成することができそうです(図2)。
チャームやボトムを含め、さまざまなフレーバー量子数を持つクォークの数をそれぞれの軸として考えると、原子核の概念は、多次元的なフレーバー量子数空間におけるハドロンの量子多体系としてさらに大きく拡張することができます。2019年初頭に、理研を中心とする国際共同実験チームから、J-PARCハドロン実験施設において、負電荷ケイ(K)中間子と陽子2つからなる奇妙な原子核状態(Kpp状態)が見つかったという報告がありました(プレス発表)。負電荷K中間子は、sクォークと u クォークからなるハドロンで、湯川の予言した核力を媒介するπ中間子の仲間です。核力を媒介するときの中間子は、量子力学の不確定性原理に従って現れては消える「仮想的な粒子」として振る舞いますが、Kpp状態では、実の粒子として原子核の構成要素となりうることを実験で初めて示した例となりそうです。この状態の束縛エネルギーは、実粒子としてのK中間子の質量の10%もありました。通常の原子核の束縛エネルギーは高々核子の質量の1%なので、かなり強い引力が働いていることになります。原子核を圧縮することは極めて困難ですが、K中間子を導入すると中性子星の中心部に匹敵する超高密度物質を作りだせるかもしれません。K中間子原子核の研究を通して、謎に満ちた超高密度物質の性質が解明されると期待されます (「中性子星の謎と核物理」」も参照)。 K中間子以外にも、別のハドロンを原子核中に埋めて、ハドロンの性質変化を調べ、強い相互作用が物質の質量を生み出すメカニズムを解き明かそうとする研究も行われています。 (「3.強い力の紡ぐ複雑な世界と“モノの質量の起源”π中間子原子や中間子(ハドロン)を埋め込んだ原子核の世界 」参照)。
宇宙における物質誕生の起源とその機構を明らかにすることは自然科学の重要な課題です。わずか数種類のクォークからどのようにしてかくも多様なハドロンおよびハドロン多体系の世界が紡ぎ出されるのでしょうか。ハドロン・原子核物理学は、ハドロンやハドロン多体系の存在形態の研究を通して、この問題に取り組んでいます。
フレーバーを持つハドロンや原子核を作るには、高エネルギーの粒子加速器が必要です。我が国では、 J-PARC/ハドロン実験施設 (東海村)、 KEK/Belle II (つくば市)、 SPring-8/LEPS (佐用町)、 東北大/ELPH( 仙台市)の各施設が供給する多彩な量子ビーム(ハドロン、電子・陽電子、光子)を用いて研究が進められており、世界をリードしています。
ハドロンは、メソンとバリオンに大別されます。メソンは、クォークと反クォークの対により構成され、中間子とも呼ばれます。バリオンは、クォーク3つからなり、核子やハイペロンはバリオンに分類されます。ところが、21世紀の初頭以降、従来のメソンやバリオンの描像では説明できない新奇な状態(エキゾチックな状態)がいくつも報告されました。とくに、KEK/Belle実験の報告を皮切りとして、世界の高エネルギー衝突型加速器実験から、cクォークやbクォークを含むハドロンの不変質量スペクトルの高いエネルギー領域に複数の予期しなかったピーク構造が観測されています。これらのうち、あるものはクォーク2つと反クォーク2つからなる新奇なメソン、別のものはクォーク4つと反クォーク1つからなる新奇なバリオン、という風にエキゾチックなハドロンである可能性が指摘されています。エキゾチックなハドロンの内部形態がどのようなものかについてはさまざまな可能性が議論されています。図3に示すように、たとえば、(I)4つないしは5つのクォーク(反クォーク)がコンパクトにまとまっている状態(コンパクトな多クォーク状態)、(II)メソンとメソンあるいはメソンとバリオンが緩やかに結合したハドロン同士の分子的結合状態(ハドロン分子)、(III)強く相関したクォーク対(ダイクォーク)が1つの構成要素として振る舞うハドロン、などが主に検討されています。(I)、(II)、(III)の形態だけと限られているわけでもありません。一般には、異なる形態の量子力学的な混合状態と見るべきかもしれません。また、すでによく知られていたハドロンのなかにもエキゾチックな状態が存在する場合もあります。たとえば、udsクォークからなるラムダ(Λ)ハイペロンの励起状態に分類されるΛ(1405)粒子の例が有名です。Λ(1405)はメソンとバリオンの分子的共鳴状態の候補として注目されています。Λ(1405)については、K中間子と核子の結合状態としてだけでなくπ中間子とΣハイペロンの結合状態や同じ量子数となるメソンとバリオンの結合状態の混合状態として記述する理論モデルが支持されつつあります。 さらに、最近、東北大のELPH施設から核子2個とπ中間子2個の合計よりも重い質量領域に未知の共鳴状態の存在を示唆する実験データが報告されました。 これらは、最低でもクォーク6つ分の量子数(バリオン数2)をもつ状態の可能性があります。クォーク模型や最近進展の著しい格子QCD計算に基づいてストレンジ(s)クォークの数(ストレンジネス量子数)2を持つH粒子や同量子数が6のダイオメガ粒子など、6つのクォークから成るフレーバー量子数を持つダイバリオン状態の存在が予想されており、探索が試みられています。
バリオンを構成する3つのu,dクォークの1つを、フレーバー量子数を持つ重いクォークに置き換えることにより、重いクォークと他の軽い2つのクォークを運動学的に分離することができます。つまり、フレーバー量子数を含むバリオンのスペクトロスコピーは、バリオン内部のクォーク対(ダイクォーク)相関を調べる格好の場を提供します。ダイクォークは、バリオンを記述する有効な自由度になっている可能性があり、上述のエキゾチックなハドロンの内部構造を解明する手がかりを与えると期待されています。また、低温で非常に高い密度のクォーク物質においては、ダイクォークが強く相関したカラー超伝導状態に相転移すると考えられています。このような状態を地上で実現する方法を人類はまだ知りませんけれど、巨大な重力によって押しつぶされた超高密度天体の内部では実現されているかもしれません。従来の電磁波に加えて、素粒子(ニュートリノ)や重力波を用いた観測によって、超新星爆発や中性子星合体などの超高密度天体が関わるダイナミックな現象における様々な情報が蓄積されつつあり、提供されています。宇宙のかなたで起こるマクロな天体現象からもたらされる情報に対して、ダイクォーク相関やエキゾチックハドロンの内部形態の研究から得られる複雑な強い相互作用の振舞いを解明し、微視的な見地から未知の高密度クォーク物質の性質が明らかになると期待されます。
ハドロンの内部形態を解明するには、内部を構成する要素の運動を調べる必要があります。ハドロンを励起させ、励起状態の性質を調べるスペクトロスコピーの方法は非常に有力な手段です。励起状態の励起エネルギー、寿命(生成されて崩壊するまでの平均時間)、およびスピン、パリティといった内部量子数に加えて、生成や崩壊の仕方を調べることで内部構造を知る手がかりを得ることができます。電子や光子はスピンをもっており、スピンの向きをそろえたビームを利用することができます。一方、ハドロンはクォーク自由度を持っているので、ハドロンビームは、生成するハドロンに持ち込むフレーバー量子数をコントロールしながら、効率よく目的のハドロンを生成することができます。多様な量子ビームを上手に利用することで生成過程において量子状態を制御し特徴的な崩壊過程を押さえることができ、ハドロンの内部構造の特定につなげることができます。
ラムダ(Λ)粒子、シグマ(Σ)粒子、グザイ(Ξ)粒子などのハイペロン(s(ストレンジ)クォークを含んだバリオン)は、核子(陽子・中性子)と似た性質をもつため、核子とともに原子核の構成要素となれます。ハイペロンを含む原子核を「ハイパー核」といいます。Λハイパー核(Λ粒子を1個含む核)の存在は1960年頃から知られていますが、その後研究が進展し、軽いもの(陽子・中性子・Λ粒子1個ずつからなる「3重水素ハイパー核」)から重いもの(陽子82個、中性子125個、Λ粒子1個からなる「鉛208ハイパー核」)まで約40種類のΛハイパー核が実験で見つかっています。それらの質量、励起状態(レベル構造)、寿命や崩壊の性質なども詳しく調べられていて、そこからΛ粒子と核子の間の引力の強さと性質も分かっています。Λ粒子が2個入ったダブルラムダ(ΛΛ)ハイパー核も2種類見つかっています( プレス発表 )。Σハイパー核は1種類のみ見つかっていて(それ以外のケースではΣ粒子が原子核から反発力を受けて原子核に入れないことが分かっています)、また最近Ξハイパー核1種類が初めて発見されました。原子核を形作る核子と核子の間の力を核力といいますが、これらのハイパー核のデータから、ハイペロンと核子、ハイペロンとハイペロンの間の核力も分かってきました。我々のこうした研究から、クォーク間の基本相互作用(「強い相互作用」)からどのように核力が生まれたのかが解明され、クォークという素粒子の世界と、原子核や原子・分子などの物質世界とが一貫して理解できるようになると期待されています。さらに、ハイパー核の研究は、中性子星内部の超高密度物質を理解するためにも不可欠です(詳細は 「中性子星の謎と核物理」を参照)。
図2は「3次元核図表」です。x軸に中性子の個数、y軸に陽子の個数をとって原子核(同位体)を配置したものを「核図表」といいますが、さらにz軸にs(ストレンジ)クォークの数をとって、ハイパー核も含めたすべての原子核を配置したものです。sクォークを1個含む2階部分にΛ、Σハイパー核が、sクォークを2個含む3階部分にΛΛハイパー核、Ξハイパー核が位置します。z軸方向のずっと先には、中性子星中心部に安定に存在しているかも知れない「ストレンジ核物質」が位置します。多様な原子核の世界を3次元的にさらに拡張し、中性子星中心部も含めて物質の世界を大きく広げることが核物理の一つの目標です。
日本は実験・理論ともにハイパー核研究の分野で圧倒的に世界をリードしており、上記の多くは日本人の核物理研究者の成果です。現在、その実験研究で世界の中心となっているのがJ-PARCハドロン施設です。ハドロン施設では、大強度の陽子ビームを使って、世界最高強度のK中間子、π中間子などのハドロンビームを生成し、それを使ってさまざまなハイパー核やハドロンの研究を進めています。研究を一層発展させるため、ハドロン施設を拡張する計画も進めています( 中性子星の謎と核物理」 の脚注を参照)。
ハドロンの中でクォークがどのような構造を取っているか、という疑問に加えて、クォークの世界とハドロンの世界の間には、もう一つ、大きな疑問があります。それは、ハドロンの質量の問題です。
クォークの質量は、欧州のLHC加速器で発見されたHiggs粒子により生み出されますが、Higgs粒子により得られる質量は、数MeV程度(質量1MeVは約1.78×10-27gに相当)と言われています。それに対して、内部にクォークを3個含む陽子は、940MeV程度の質量を持ち、それは元々のクォークの質量の約100倍にあたります(図4)。この陽子の余計な質量がいったいどこから来たのか、それが、原子核・ハドロン物理学の大きな研究テーマの一つです。
この余計な質量を生み出す機構が、2008年にノーベル賞を受賞された南部陽一郎先生が提唱した『自発的対称性の破れ』です。『自発的対称性の破れ』の本質は、相互作用の基底状態である『真空』の性質が、温度や密度といった媒質の内部変数に依存して変化し、それによって『真空』からの励起状態であるクォークやハドロンなどの粒子の性質が変化するという点にあります。『真空』というのは、単純な何もない空間、ではなく、相互作用の影響によって複雑な構造を持つ研究対象である、という大きなパラダイムの変化がありました。ここで、強い力が生み出す複雑な『真空』構造と質量獲得にとって重要なのは、カイラル対称性という対称性です。
このハドロンが質量を動的に獲得する機構と『真空』の関係は、理論的な研究と格子QCDによる計算などで明らかになりつつありますが、具体的に、どんな媒質下でどの程度の質量が獲得されるのか、という情報を得るためには、実験的な研究が必須です。その実験的研究が、J-PARC、理研、ドイツGSI研究所などで精力的に展開されています。特に、有限の密度を持った媒質に対する研究は、格子QCDによる計算が難しく、実験による探索的な研究が中心となっています。
早野、板橋らは、パイ(π)中間子の性質を原子核中で測定する実験をドイツGSI研究所で行いました。π中間子は質量が軽く、カイラル対称性が自発的に破れる時に生じる南部-ゴールドストンボソンだと理解されています。そのため、π中間子の性質は、媒質の影響を受けやすく、早野、板橋らは、その性質を利用し、原子核中でカイラル対称性が回復していることを定量的に示しました。板橋らは、より精度の高い結果を目指して、理研において実験を続けています( プレス発表 )。
さらに、直接的に、ハドロン質量の媒質による変化を捉えようとした実験もあります。延與、四日市らは、原子核中の中間子の質量を、その崩壊を通じて測定する実験をKEK-PSで実施しました。その結果、原子核中での中間子の質量変化を示唆する結果を得ました。より定量的な結果を目指して、J-PARCハドロン実験施設において実験を進めています。
強い力が生み出す多様な『真空』の構造、クォークの世界からハドロンの世界への移り変わり、高密度におけるハドロン、クォークに振る舞いは、原子核・ハドロン物理学における共通の興味であり、大きな挑戦となっています。J-PARCや理研などの世界的な施設を用いて、その研究を前へと進めています。